岸田真理子公式サイト「金星美術館」のblog、“準備室だより”です。作品展のスケジュールなどをお届けします。
サイト運営担当のyamamomoが作品に感じたことや引き出されたことなどを、“見る側”のひとりとして書いたりもしています。

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「サワサワ」(銅版画)
前回の作品「ユラユラ」と、見くらべてみてくださいね。



  岸田真理子 銅版画「サワサワ」 

   Special Thanks to: Ikezaki Tsuguhito



風があるかないか、ヒトにははっきりとわからないぐらいのときでも、樹々に目をやると枝をしならせているようなことがあります。聞こえるか聞こえないかのかすかな音をたてながら、ゆっくりと体全体をゆらすように。

降りてきた風――山から野へ、河原へ、庭へ、田畑へ、海辺へ、渡っていく風が植物をゆらすことがあります。
そして、少し高い空を渡っていく風を見つけた植物たちが、その風を、風が行く空を見上げて体をゆらすことも、あるような気がします。
遠い稜線に、星空に、風があることに気づいたとき、ヒトのこころがゆれるように。

風がふれて、サワサワ。
風を思って、サワサワ。
どちらも風の音。


[writer:yamamomo]
| 作品のこと|銅版画 | 23:31 | comments(0) | - |
「ユラユラ」(銅版画)
タイトルが、擬音語。
これは風の絵。きっと。



  岸田真理子 銅版画「ユラユラ」 

   Special Thanks to: Ikezaki Tsuguhito



岸田さんの作品はたくさんたくさん見ていますが、擬音語がタイトルになっているのはこの作品と、次回ご紹介するつもりの2点だけのような気がします。

わたしはいつもごく普通の自転車、いわゆるシティサイクルというやつであちこちへ行きます。自分がペダルをこぐことで感じる空気の流れは、風ではなくて(と、わたしが思っているだけですが)、それ以外のいろんな風を、外に出ている間中、体で感じます。


押さえつけるような風・やわらかい風・軽やかな風・しめった風・・・
いろんな風があるのですが、昼と夜では風そのものに対する感じ方が少しちがうな、そう言えば――と、この作品を見ていて思いました。

昼間の風はある・ないの感覚なんですが、夜はそれだとちょっとしっくりこない。
飲食店以外は閉まってしまって車の数も少なくなってきたころの時間帯、どちらかというと風は「いる・いない」の感覚に近いような存在なのです。

いっしょに活動しているものたちが減ってくる夜。風とわたし。
お互いに気持ちを向ける相手が少なくなる分、よく感じることができるのでしょうか?

風は、わたしから遠いところにあるものたちに触れながら、やってきます。
風に乗って、遠いところにあるものたちがやってきます。

そういう風のことの、そういう風との時間のことの絵だとわたしは思います。


[writer:yamamomo]
| 作品のこと|銅版画 | 21:14 | comments(0) | - |
「月下水下」(銅版画)
2011年、最初の更新です。
年末年始、予期せぬできごとが多発したりうっかりMacのキーボードを使えなくしたり(100%自己責任です。何とか復旧)・・・だったのですが、準備室だよりは今年も続きます。
更新間隔が長くなりがちでも、毎日見に来てくださるたくさんのみなさま、ありがとうございます。おっとり更新がまだしばらく続きそうですが、どうぞよろしくお願いいたします。




  岸田真理子 銅版画「月下水下」 

   Special Thanks to: Ikezaki Tsuguhito



夜の世界の銅版画です。

タイトルに“月”とあるから夜――というのではなく、夜の空気が絵の中に描かれてあると感じます。


20代を迎える少し前から、30代に入って数年過ぎるまでを、都市部で暮らしました。
一晩中明るいままの街を見ながら、毎日ここには夜がない、と思っていました。

日が沈み、やがておひさまの光がすっかりなくなってしまうと、安心できるのは鍵をかけた部屋の中だけで、何年も住んだ土地でも壁の向こう側は体をこわばらせて警戒しなければならない世界でした。
電灯の光が届かない物陰は、何かよくないものがひそんでいるようでぞっとさせられました。

ただ暗いだけの、おひさまの光が照らしてくれない不安な世界が訪れる時間だったのだと思います。


田舎では市街地でも深夜には灯りが少なくなります。
だから暗がりは都市部と比べものにならないくらい多いのですが、わたしはほとんどまったくと言っていいほど、こわくありません。

暗くなると、夜が――夜という名前の存在がやってきて、世界を満たしているように感じます。ただ温度が下がるとかそういう違いではなく、別の空気がやってきて、それといっしょに昼間のわたしたちとは別のリズムをきざむものたちがやってきて。
見えないけれど、そこでは何かが交わされ、結ばれ、あたたかい流れがめぐっているようです。

都市のあの暗い時間が体をかたくさせたのは、おひさまが行ってしまっても、そこに夜がやってくることができなかったからなのだろうと思います。
それが明るすぎたせいなのか、都市をつくったヒトが夜という存在をだんだん忘れていってしまったせいなのか、わかりませんが。


今日の岸田さんの銅版画「月下水下」。
おひさまのいない世界をわたしがやり過ごしていた十数年間も、夜はちゃんとこのようにあったのだとたしかめられた気持ちになるほど、“夜の空気”を感じます。


[writer:yamamomo]
| 作品のこと|銅版画 | 22:01 | comments(0) | - |
「Morning Forest」(銅版画)
岸田真理子さんの銅版画です。



  岸田真理子 銅版画「Morning Forest」 

   Special Thanks to: Ikezaki Tsuguhito



このごろ、ヒトは眠っている間、動物に戻るのかもしれない――眠っている間だけは、動物にかえることができるのかもしれない、と思うことがときどきあります。

そのとき、こんな森へかえっているのだったらいいな、と思います。


[writer:yamamomo]
| 作品のこと|銅版画 | 17:41 | comments(0) | - |
「Leaf Dream」(銅版画)
11月も、今日でおしまい。
平野に近い樹たちの紅葉もだいぶんすすんで、すっかり葉っぱを落とした広葉樹の姿も目立つようになってきましたが、岸田真理子さんの作品は緑の葉っぱの銅版画です。



  岸田真理子 銅版画「Leaf Dream」 

   Special Thanks to: Ikezaki Tsuguhito



タイトルを直訳すると“葉っぱの夢”。

「葉っぱが出てくる夢」だと思う人と、「葉っぱが見る夢」だと思う人がいるでしょうね。
わたしは後者です。
どっちの人が多いのかな、などと思いつつ、考えているのは葉っぱたちのこと。

冬の間も枝に残ったままの葉っぱと、風と短いダンスをしてから地面に降りた葉っぱと、春を待ち待ち枝の中で眠っている葉っぱと。
葉っぱたちは、ひとつの夢をみんなでいっしょに見ているのかもしれません。

夢を見ながら生まれて、夢を見ながら土に還っていく葉っぱたち。



[writer:yamamomo]
| 作品のこと|銅版画 | 18:32 | comments(0) | - |
「Big Tree」(銅版画)
世界を司る、大きな樹。
大きな樹の司る世界。



  岸田真理子 銅版画「Big Tree」 

   Special Thanks to: Ikezaki Tsuguhito



ここには「今」の世界が描かれていて、その「今」はあらゆること――過去も未来も――を含んでいるのだと、この作品を見ていて思います。
そして、この光景の中にヒトの気配は見えないように、感じます。

その理由のひとつに、ヒトが「今だけ」を生きることができないから、というのがあるかもしれません。
「過去」と「未来」
「きのう」と「あした」
それらのことばを、概念を識ってしまった――おそらく「今」の自分を、「今日」の自分をよりはっきりと見るために――ヒトは、去ったこととやってくるものにこころを向ける分だけ、「今」とつながる力を弱めたかもしれない。

その善し悪しについて語ることは、当事者であるヒトにはできないのだろうと思います。
ただ、これからとこれまでの差し引きとしての「今」を生きなくていいように、まぎれもない「今」を内に持った者たちに導いてもらえるよう在ればいいのだと、そういう気がします。


[writer:yamamomo]
| 作品のこと|銅版画 | 15:33 | comments(0) | - |
「夜風」(銅版画に彩色)
お久しぶりの銅版画です。



  岸田真理子 銅版画「夜風」 

   Special Thanks to: Ikezaki Tsuguhito



11月に入って、公式サイトTOPの作品を「夜風」にかえました。

展示室にもページ追加してから準備室だよりで、と思ったものの
なかなか手が着けられないので、先にこちらでご紹介することにします。


夜の風。
まだ、つめたくきびしい風ではなく
夜空の深い青にひたされた樹や草を
そっと訪れてまわるような風。
それに応えるように、一枚、二枚と枝をはなれる葉。
気づくか気づかないかの風と世界の
無音のコミュケーションの光景――そう映ります。


岸田さんの銅版画は作品数も多く、お好きな方もこれまた多く・・・
なのですが、やはり岸田さんの真骨頂はペインティング、ということで
これまではずっと、サイトの入り口はペインティングにしていました。

今度も次はどの作品にしようかな、と思っていたところに
この方から銅版画作品のデータをたくさん送っていただきまして
わたしだけで見ていてはいけないなと思うものが、後から後から。

この「夜風」は縦ですが、横に長い作品がけっこう多いので
Blogだとどうしても小さくなってしまいます。
近いうちに、公式サイトの銅版画展示室にまとめてUPするつもりです。

夏からずっとばたばたしているせいで
新しい作品のご紹介が思うようにできていませんが、
ご覧いただきたいものをたくさんためこんでます。
楽しみにお待ちください。



[writer:yamamomo]
| 作品のこと|銅版画 | 12:50 | comments(0) | - |
「老白梅」(銅版画)

↓ 2010年最初の岸田真理子さん個展、3月・京都にて。


 岸田真理子 銅版画展 〜満ちて日射し〜
  2010年3/23(火)〜3/28(日)
  12:00〜19:00(最終日は18:00まで) *月曜休み*
  at:ギャラリー恵風(けいふう)

  
〈詳細はこちらからどうぞ〉



香川は手ぶくろもマフラーもいらない日が続いて、うっかりあやめが花を開かせていたりしますが(みんな首がみじかいです)、梅や木瓜も満開を迎えています

今日は、花の頃を描いた作品ではありませんが、梅の季節にご紹介したいと思っていた銅版画です。



  老白梅

  岸田真理子 エッチング 「老白梅」




わたしはこの作品の梅を知っています。
岸田真理子さんの香川のアトリエがある、果樹園の入り口に立っている梅です。3代前の当主の方が植えられたものとうかがっています。

体中に苔や宿り木のある見事な姿は、そこに根をはっているただの植物ではなく、その場所の一部です。この樹が、ここから離れてはおそらく力を失ってしまうのと同じように、この場所も、この樹を失うと損なわれてしまうのだろうとわかります。

この土地で生きてきた人が樹に寄せた思いを吸って、ここにある老いた梅。
枝に降り積もらせた年月で、ここがここであるように守っている樹。

だから、小さな枝のひとつひとつまで、こんなにもかけがえのない姿です。



     部分/右下の中央寄り

    岸田真理子 エッチング 「老白梅」




     部分/中央上の左寄り

    岸田真理子 エッチング 「老白梅」







     






JUGEMテーマ:アート・デザイン
| 作品のこと|銅版画 | 23:58 | comments(0) | - |
「SNOW BLUE」(銅版画)
 今日の岸田真理子さんの作品は、雪の光景のエッチングです。

雪景色のうつくしさを切り取るのではなく、雪に包まれたものたちへの思いを伝えるのでもなく、「雪が降るときのこと」「雪が降るということ」をそのまま絵にしたらこうなのではないかと、わたしには感じられます。
   

 SNOW BLUE


 岸田真理子 エッチング SNOW BLUE



雪。
空からやってくるいろいろなものの中の、ひとつ。
しばらくの間そばにとどまっている雪は
樹や草花や野や山にとっても、少し特別な存在かもしれません。

ひんやりとつめたいはずの雪景色は、
なぜかときに、やさしくあたたかいものに映ります。

白い結晶は「いま」を封じ込めながら降りつもり
ひとつの掛け布団に覆われた無数のいのちが呼応しあって
音のない音楽を奏ではじめる。静かなうねりをつくる。流れ出す。

ゆるやかに音で満たされていく地表へ、また雪。
 


   部分/左上

   岸田真理子 エッチング SNOW BLUE 部分



   部分/右下

   岸田真理子 エッチング SNOW BLUE 部分





| 作品のこと|銅版画 | 23:53 | comments(0) | - |
「あの樹のところまで」(銅板画)
夢はなに? とたずねられて元気よく答えられたのはせいぜい幼稚園くらいまで。小学生の間はそれらしいウソをつき、中学生くらいになると平気で「別にない」と言っていたような気がします。

夢は特にありません。目標も、ありません。
でもずっと、同じところに向かって歩いています。それがどんなところかは皆目わからないのではありますが、てくてく てくてく。



  あの樹のところまで

  



そのようなワタクシであるがゆえ・・・だと思うのですが、この銅板画作品「あの樹のところまで」はこんなことを考えさせます。

“あの樹”にだんだん近づいていけば、だんだん見えてくるし、はなれていたらそんなによくは見えないものだし(自分のことも)。
ただ「行きたいか」と自分にたずねて、少し考えてみて「うん、行きたい」と答えられるなら、心配することはない。
自分の気持ちを感じられるなら、だいじょうぶ。



     部分/右上
     


     部分/左下
     



こんなワタクシであるがゆえ、父親と母親はいつまでも心配ばかりしていなくてはなりません。
それは申し訳ないのですが・・・でも、ただの一度も「これをしなさい」と言ったことがなく、世界を自分の細胞で感じる力の“もと”をたくさんたくさん与えてくれ、感じたことを信じてしまうこんなに強情なワタクシに育ててくれたふたりに、心から感謝しています。


| 作品のこと|銅版画 | 23:33 | comments(2) | - |
                                         
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